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2018/9/19

バルト三国の記憶(2)

「おふたりは、いま、何語でしゃべっていたのですか」

ことばが途切れるのを待って、こう訊いたのはそのときでした。
会話に入れないまでも、その響きに耳を傾けていて、
どことなく違うような気がしたのです。

「…いまのは、ラトヴィア語でも、リトアニア語でもないですよね」

 日本語で訊いたわたしに、日本語で答えてくれたのは、ラトヴィア人のイルさんでした。

「ロシア語です」

 ロシア語?

腑に落ちない顔をしたのでしょう。
イルさんが補足、という感じで教えてくれました。

「――世代です。バルトでは、私やドライバーの世代の人間は、みな、ロシア語を話せます」

おふたりは、五十代から六十代と見受けられました。

ツアー前、にわかに仕込んだ知識では、バルト三国がロシアからの独立を果たしたのがちょうど百年前。
その後、ふたたびソ連の占領下に置かれ、そこからの独立したのは
たしかソ連崩壊と前後する1990年代の前半です。

ということは…と、急いで計算してみました。
おふたりは、生まれてから二十代三十代にかかるまでを、ソ連占領下で生きてきた人たちなのです。

イルさんが、さっきのわたしとのやりとりを訳して聞かせているのか、
ドライバーさんはは深くうなずいています。
ふと見ると二人のグラスが空いていたので、手を伸ばして水入れから注ぎ足しました。
ドライバーさんはおどけた調子で胸に手を当てると、「スパシーヴァ」と、ロシア語で礼を言いました。

バルトの人々は、「バルト三国」とひとまとめにされるのを好まない、と現地で聞きました。
たしかに「こんにちは」ひとつとってもあれほど違う国々です。
特に最北のエストニアは、言語も民族もむしろバルト海を挟んだフィンランドに近いようで、
とても三国と一括りにできるものではないのでしょう。
でも、その国々が、手を取りあったときがありました。

今年は、リトアニアとラトヴィアがロシアからの独立を果たしてから、
ちょうど百年の節目を迎える年でした。
そして、リトアニアでは四年に一度、ラトヴィアでは五年に一度開催される
「歌と踊りの祭典」にあわせての訪問でした。

エストニアも含め、「バルト三国」の各国で数年に一度開かれる「歌と踊りの祭典」。
その源流としてあるのが、独立を求めて各地で湧きあがった民族の大合唱でした。 

最終日、いかがでしたか?と訊ねたわたしに、ひとりの方が堪能したといった口調で仰いました。

「けっこう走ったよね」

たしかに走りました。
リトアニアの首都ヴィリニュスから、ラトヴィアのリガを経て、最後はエストニアのタリンまで。

三国の首都をむすぶように、
一週間をともにしたドライバーさんの運転で走りぬけた距離は600キロ。

その、わたしたちがバスで辿ったのとまさに同じ距離、同じ道のりを、
ソ連占領下の1989年、「人間の鎖」が結んだのでした。

「民族人口の半分の、200万人が参加しました。私も行って、手をつなぎました」

イルさんの低いバリトンが、耳によみがえりました。

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